
千日前は、もとは墓地であり刑場でもあったところです。
江戸時代には下難波と呼ばれていましたが、大阪夏の陣で市中が焦土と化したあと、各所にあった墓地が千日前に集められました。
墓地のほか、大小の寺院は、小橋村(天王寺区)、天満村(北区)、東西高津村(天王寺区)に集められましたが、
これは大阪城代松平忠明の遠大な都市計画に基づくものであったとされています。
明治3年に刑場は廃止され、明治7年には天王寺村埋葬地(阿倍野斎場)ができたので、千日前墓地はそこへ移されました。
こういう事情があったため、江戸時代の初期、芝居小屋などの設置が許可されていた道頓堀とちがって、
千日前は明治のはじめになってから興行の街として開けていくわけです。
そんな時代。だれもがしり込みするこの地を手に入れ、歓楽街となる基礎をつくった何人かのフロンティアスピリッツあふれる人たちがいました。
それは奥田弁次郎・横井勘市・逢坂彌・藤原重助といった人たちで、彼らはその先見性と豪気さを鍬にして、不毛の地をみごとに開墾したのです。


本名奥田伊兵衛は、弁舌がさわやかだったので通称「弁次郎」と呼ばれていました。
明治のはじめに、丹波から妻子をともなって来阪し最初は青物商を営んでいましたが、
極貧の中で偶然、天満の侠客小林佐兵衛の知遇を得て、香具師となった人です。
小林は、司馬遼太郎の「俄−浪華遊侠伝−」のモデルとなった人とされています。
米相場をつぶしたり桂小五郎を助けたり、大阪府から消防や
街灯の点灯、安治川の工事を請け負ったり、明治18年には多くの貧しい人々を収容する「小林授産場」をつくったりした人です。
小林の薫陶をうけた「弁次郎」は、御霊神社や順慶町の夜店商人に油代をはずみ、千日前妙見さんの夜店に出店させ、
商業地開発の基をつくり「高物」といわれる「見世物」を多く手がけたといわれています。

横井勘一は岐阜県の生まれ。明治のはじめに大阪へやってきました。いろんな商売をしていましたが、
縁あって奥田弁次郎の見世物小屋で働きながら、爪に灯をともすようにしながら金をため、千日前に見世物小屋を建て、
土地を貸したりして発展していきます。辻雪隠(便所)を何ヵ所も作り、糞尿料で稼ぎ、交番所を寄付したりして、
明治半ばには「女芝居」で大当たりをとります。そして「横井座」と呼ばれる、3階建・4千人収容の大劇場を作るに至るのです。
横井勘一も賑やかな千日前を築いた功労者といえるでしょう。

逢坂彌は、和歌山県出身で明治のはじめに大阪府二等警部で南警察署に勤務していました。
彼も千日前の土地を手に入れ、現在のNGKシアターの向かいに「集寄亭」という講釈席をひらきました。
明治29年には付近の不動産を買い足して「弥生座」を作り、「集寄亭」も新築しています。
また「横井座」あとの南大劇場の興行にも関係し、大正14年には大阪市会議員にもなった人です。


(資料参照:大阪物知り辞典、上方落語地図など)
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